Pictet Story


ジュネーブがスイスの州になるとき Ⅰ

ピクテ家の1人、シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンは、ピクテ銀行の経営に直接関わることはありませんでしたが、ジュネーブという都市、そしてスイスの中立性をヨーロッパの大国に承認させた人物として、語り継がれています。




ウィーン会議での活躍

今からおよそ200年前の1814年10月、ウィーン会議が始まりました。そこにはヨーロッパの大国の指導者と並んで小さなジュネーブの代表団が参加していました。彼らが後にジュネーブ共和国の運命とヨーロッパにおけるスイスの地位を変えることになります。

1814年とはジュネーブの歴史において非常に重要な年です。小さな共和国は、ほぼ300年間の独立と16年間のフランスによる支配の後、スイスの22番目の州(カントン)になろうとしていたのです。

このジュネーブの歴史の重要な局面において一人の人物が大きな役割を果たしました。それがシャルル・ピクテ・ド・ロシュモン(Charles Pictet de Rochemont)です。一見では、ランシーに住むこの控えめな農学者が国際政治において活躍する運命であったようには見えませんが、しかし彼は1814年1月から早々に、ポスト・ナポレオン時代のヨーロッパの地図を書き直す大きな会議において、ジュネーブ、さらにはスイスの外交団長となりました。


スイスの中立性を承認

ピクテ・ド・ロシュモンは、交渉者としての才能と自らの人脈を生かし、その短くも輝かしい外交キャリアの間に新しいジュネーブ州の境界(現在のもの)を定めることに成功しました。さらに彼は、当時のヨーロッパの全ての大国にスイスの中立性を承認させ、それを守らせました。

今日でもジュネーブへの彼の功績の記憶があちこちに刻まれています。1894年に彼を称えて命名された、オー・ヴィ―ヴ広場とオー・ヴィ―ヴ駅を結ぶピクテ・ド・ロシュモン大通り、1970年にトレイユ坂の上に建てられた銅像、ピクテ・ド・ロシュモンの旧邸宅内にある現ランシー市役所などです。



「好意を示せば、好意を得る。 心と行動に正義を持って接すれば、それは自分に戻ってくる。 間違っていることに対し間違いだと言えることができれば、 つまりいつも非難し、疑い、警戒し合い、軽率に憎んだりしないこと、そうすればそれに相応しい扱いを受ける。 敬意があれば、信頼関係ができた瞬間に全てが容易くなる。 それが真の外交だ。」

~1816年4月23日 シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンから友人P.E. ド・フェレンベルグへの手紙の一部~


シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンが果たした重要な役割を回顧し、ピクテ家のこの偉大な人物の類まれな経歴をこれから全6回、皆さまにご紹介してまいります。



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